ピラール・ド・スール日本語学校 > 学校作品集 > ブラジル日本移民学習 > 移民の体験談
実際に移住をしてこられた人に移住にまつわる話をして頂きました。 日本語学校校長の豊田一夫さん。 皆が信じられないような数多くの経験をされ、とても面白く、とても印象的なお話でした。 予定の時間をオーバーし1時間半のお話でしたが、日本語がよくわかる子も、そうでない子も皆興味を持って聞き、話が終わった後も写真を見たり豊田さんへの質問が次々に出て、あっという間の2時間でした。 みんな、昔の生活・移住の大変さを知り、とても勉強になったようです。 |
豊田家のブラジルに来る前の様子/ ブラジルに来る理由 |
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豊田家がブラジルに来る状況 |
豊田家が入植した町の様子 |
入植した町はトメアスでした。こしょう作りの農場に入植しました。そして何もない山の中に入り込んで木を切って家を建ててこしょうを作り始めました。そこはとても暑くて雨になった時走って逃げていました。なぜならマラリアになるのが怖かったからです。 |
1954年にブラジルのべレンの港に到着しました。そこから豊田さんはトメアスという町に行って自分の土地の山に入って、草を切って、畑を作った。そこでは、こしょうの栽培をしていたそうです。 毎年、もの凄い数のこしょうを収穫して外国に輸出していました。しょっちゅうこしょうの粉が入った辛い風が吹いたりしてくしゃみをしながら働いていたそうです。 トメアスでは天気がとても蒸し暑いので一日にシャツを三回も交換していたそうです。 トメアスで嫁ができました。 川がお風呂でした。一日に三回川にはいっていた。 汗で手が滑らないように手首にしていた手ぬぐいを絞らなければならなかった。 |
豊田家が入植した 当初の生活の様子 |
豊田一夫さんが遭遇した(動物の)エピソード |
アルマジロとか陸がめを殺して食べていました。 豊田さんの父は足の小指をかまれた、そして豊田さんは小指をチョビット切って血をすって外に出した。そのあと近くのブラジル人にお願いしてトラックで病院に運んでもらい、注射を背中にうったら良くなった。一ヶ月足がもの凄くはれて、寝ていなければならなかった。 |
ピラール以降 |
豊田さんは1964年にピラール・ド・スールへきました。飛行機で家族五人できました。 最初はトマトをさいばいしていました。養鶏もしていました。 ピラールではまえからトマトをつくっていた人もいて、その人たちにいろいろなことを教わっていました。トマトをセアザにおくっていたが、値段がよくなかったから果物を作り始めました。それからブドウをつくりはじめました。 その後、日本語学校の校舎を建てるのに手を貸しました。その設計図をつくったのは、ゆりさんでした。そして豊田さんのお父さんが日本語学校をたてました。 トメアスからオートバイをもってきました。そのオートバイで、買い物とかしていました。 また、トラクターを買ったが、ピラールへついてからとりにいきました。それを農業につかっていました。そのトラクターはイギリス製のMASSEY FERGSON CINQUENTINHA でした。 |
“けんかをしたらだめなんだよ” “自分の身は自分で守る” “うそをつくな。一回うそをついたら、何回もつかなきゃなら “皆が今こんないい生活をしているのは先祖のおかげなんだ” “温故知新” 昔の事から学び新しい考えをだす “ラブレターでもなんでも、手紙という物は大切にとっておき |
豊田一夫さんからのメッセージ |